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2015年11月18日 (水)

生きていれば悲しいこともあるんだよ

本ブログの基本方針として楽しいことを伝えることを本分としているのですが、生きているとたまにはどうしても悲しいことも書きたくなることがある。

高校時代からの親友のお母さんが亡くなってしまったのだ。

高校時代、ジャズにはまった頃、僕と同様にジャズにはまってしまった友人がいた。
放課後、僕は毎日のようにその友人の家に遊びに行き、コーヒーを飲んではマイルス・デイビスやクリフォード・ブラウンなど、当時少ない小遣いを貯めてやっと買い込んだ数枚のレコードを毎日毎日繰り返して聞いていた。

夕方暗くなった頃、仕事から帰ってきたその友人のお母さんは、勉強もせずに毎日ジャズばかり大音量で聴いている僕たちに小言の一つも、嫌な顔も見せることもなく、いつもニコニコ優しく接してくれていた。

笑顔が素敵で、なかなかの美人だった。自分の母親と同じくらいの年齢のそのお母さんだったが、とてもフレンドリーで素敵な人だった。

お父さんという人も、素敵な人で、僕らに説教することはなく、一緒に酒を飲んでは時々三線を手に沖縄民謡を聴かせてくれた。沖縄出身の人なのだ。

高校卒業後は、その友人の家には僕以外にもたくさんの遊び仲間が集まるようになり、かれの部屋が二階から一階に移動してきてからは、みな玄関を通らずに庭から直接友人の部屋に上がりこむようになり、遊びに行くと誰かしらがいる、という僕らの仲間内でのたまり場にすっかりなってしまった。

ある正月のこと、両親が実家か何かに出かけて留守にしていた時のこと。
僕ら悪友数人はけれの家に泊まり込んで、毎日朝から夜中まで酒を飲んではジャズを聴いたり馬鹿話したりで数日間過ごしたことがある。

夜中まで酒を飲むので、翌朝の遅い時間に目を覚ました僕らはぐったりしていて、さすがに酒を飲む気にはならず、コーヒーなど飲みながらジャズをかけて大人しくしているのだが、お昼を回る頃になると誰ともなくビールや日本酒に手を出すものが出てきて、気がつけばまた酒宴が始まる、というのを繰り返した。

この時格好のおつまみになったのが、彼の家の物置に漬けてあった白菜漬け。
おそらく一冬分漬け込んであったのだろう。大きなバケツにぎっしりと白菜が漬けてあるのを誰かが発見してしまったのが運の尽き。

最初は遠慮がちに少しずつ出しては食べていたのが、二日目くらいに「キムチの素」など購入してくるものがいて、白菜の消費は一気に加速し、確か四日くらいだったろうか、家族が帰ってくるという日の朝には白菜漬けのバケツは空になってしまっていた。

ヤバイかなあ、なんて思いながらも飲み飽きた悪友どもは帰って行き彼の家族が帰ってきたら、おそらく出かけた後で疲れているので、簡単にあっさり漬物でご飯でも、なんていうことになったのであろう。ところがあてにしていた白菜漬けは空っぽ。一切れも残っていない。さすがにこれにはけれの両親も切れたらしく、こっぴどく叱られたということを後日その友人からきいたのだが、僕らはバカなので何も悪びれることもなくその後も友人宅に集まっていった。

そんな時、直接顔を合わせた彼の両親は白菜の件で我々を咎めることもなく、これまで通り接してくれたのが嬉しかった。

実の親だったら、きっときつく叱られただろう。
勉強しないでジャズばかり聴いていることにだって小言を言われた違いない。
僕らには友人の両親、特にこのお母さんがいてくれたので遊ぶ、そして学ぶ場所を失わずにすんだのだった。

浪人中のこと、僕がそのお母さんと何かの会話の中で「新宿に行くんだけれど500円しか持っていない。これだけあればジャズ喫茶でビールが飲める」というようなことを話したら、「勇気あるわねえ、私なんか一万円は持たないと恐くて都会には出られないわよ」と未成年の息子と同い年の僕に笑いながら話していたのをなぜかはっきり覚えている。

親友のお母さんの告別式に参列した。
早く到着した僕は、友人の弟さんに許可を取って亡くなったお母さんの顔を見させてもらった。祭壇に飾られたそのお母さんの写真はかつて世話になった頃の面影の残る優しい笑顔だったが、棺の中の顔にその面影はなくなっていた。

僕はその顔を見た途端涙が溢れてきて、我慢するのだけれども、次々と涙が溢れてきてどうすることもできなくなった。

喜びや楽しみと悲しみというのは表裏一体なんだと思う。
喜び、楽しみが大きければ大きいほどそれを失った悲しみも大きい。
かつての美人だった面影を失った棺の中の顔を見て、僕の中の大きな何かが失われ悲しみが溢れてきたのだ。

やがて、告別式はつつがなく執り行われ、出棺まえの最後のお別れの時、もう一度顔を見た時も再び涙が溢れ出てきた。
今度はもう少し冷静でいられるかと思ったのに。

友人のお母さんが数年前から難病にかかり寝たきりなってしまっていたことは知っていたので、僕自身の中でもいつかはこういう日が来るのだろう、と覚悟していたし、亡くなった一報を聞いた時も、「ああ、とうとうその日が来てしまったか」と思った程度だった。

しかし、いざ本人の亡骸を目の前にした途端たくさんの思い出が心の中に一気に飛び出してきて、僕は感情をコントロールできなくなってしまったようだ。

お母さんのおかげで僕は立派なジャズ大好き人間に成長し、大学時代にはテナーサックスを習い始め、途中ブランクは長かったけれども、今も時々当時にジャズ仲間と集まってサックスを吹くという豊かな人生を暮らしている。

晩年のお母さんは60歳を過ぎてから英語を勉強したり、フラダンスを踊ったりと人生を謳歌していたと式の中ではじめて聞いた。
僕はその生き方に強く共感し、またそのことはとても嬉しかった。
僕の中でお母さんの何かが生き続けているに違いないと強く感じたのだった。

生きていくということは、人の死に向き合うことに他ならず、長く生きればそれだけたくさんの死に向き合わなければならいことは分かっていたつもりだか、いざ自分の身に降りかかると耐えきれない悲しみに襲われ、大きな喪失感に襲われる。

昨年のちょうど今頃には仕事仲間だったカメラマンの遠藤さんという友人を、そして今年の春先には学生時代の親友を失った。

これからも、こうした悲しみを乗り越えていかなければならないと思うと辛い気持ちになってしまうのだが、前を向いていこう。辛く悲しい分だけ楽しく幸せだったのだと思って生きていくとしよう。

斎場を出て行く霊柩車を見送り、自分の運転する車に乗って帰路に着いた。
朝降っていた雨はいつの間にかあがり、フロントグラスからは日が差し込み青い空がいっぱいに見えた。
ところが突然、ぱらぱらっと雨粒が落ちてきてフロントグラスに雨粒が散らばった。

明るい日差しに鮮やかな青空とフロント・ガラスに広がった雨粒とのコントラストは、悲しみに沈んでいた僕の気持ちを何故か勇気付づけてくれているような気がした。


本文を亡き親友のお母さんに捧げるとともにお母さんの冥福をお祈りたします。

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