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2017年1月 4日 (水)

還暦の正月は徹夜飲み

スピリチュアルに開けた2017年であったが、二日目は夕方から高校時代の友人数人で新年会をやることになった。

現在仕事に赴任している I・S(テロリストではない)という友人が正月に帰省するから久しぶりに会おうじゃないか、ということから都合のつく人に声をかけて実現することになった。

夕方五時前に朝霞台・北朝霞という二つの駅の前にある居酒屋に集合。
この日来たのは先ほどのI・Sに I・T(コンピュータ関係の仕事ではない)、愛称Wに私の四人。Wは唯一の女性。

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ぼくたちの繋がりは高校二年生の時に学園祭で映画を作って上映するという、当時としては考えられない革新的なことをやったことから始まる。

ぼくらは昨年から今年3月にかけて還暦を迎えるので、高校時代というのは今から45年から42年前くらいの1973から75年の頃のこと。

この頃の世の中は高度経済成長期にあり物価はどんどん上がるし、畑はどんどん住宅になり、道路は砂利道から舗装道路へ、学生運動が盛んであったがピークは超えていた。

ぼくたちの世代は子供も多かったのでぼくらの通った埼玉県南部にある県立高校の一学年のクラスはなんと八クラスもあった。


最初に映画を作ろう、と言い出したのはこの日は疎遠になってしまったSという男なのだが、その映画の話が出るまではぼくらは特に強い繋がりがあったわけでもなくたいして口を聞くわけでもない程度の付き合いだった。

高校二年生のホームルームの時に「学園祭でクラスとして何かをやりましょう」的な話が出た時に、「映画を作ろう」と言い出すSに対し大半のクラスメイトは「何を言っているんだこいつは?あほか」的な空気が流れた時に「やろう」と手を挙げた数人が今でも強い繋がりの友達として付き合っているのである。

今となっては高校に映画部があるというのは当たり前の時代だけれど、当時は当然ホーム・ビデオなどいうものは存在しない時代なので、「映画を作る」ということが具体的に何をどうするのか?ということすらイメージできないような時代だった。


そんな時に8ミリフィルムを使い、それも音声は同録できないタイプのものを使っての映画製作をしようというのだから、それに賛同したぼくらはある意味皆変わり者で物好き、言い方を変えれば好奇心のとても強い高校生だったのかもしれない。
いざ製作となればまずはカメラをどこで手に入れるかが問題だった。フィルム代だけでも随分お金がかかったろう。
どうやってカメラを手に入れたのか、製作の資金をどう捻出したのかは良く覚えてない、おそらく言い出しっぺのSが小遣いを出したのではないか?フィルムの現像代を安く抑えるために親が写真屋さんをしていたYという女の子も仲間に引きずり込んだ。

台本はSが書いて監督もやった。

カメラマンはI・T、主人公はW、 ぼくは雑用と役者の掛け持ちだった。

この年に作った映画の内容は学生青春ものなのだが、当時の高校のがんじがらめの校則なんかぶち破って自由に生きよう!というメッセージを込めた内容の映画だった。

夏休み中に空っぽの学校を使って撮影をしたのだが、校長室を使って校長役に扮したぼくが主人公に退学を宣告するシーンを撮ったことを鮮明に覚えている。

当時人気のTVドラマ「時間ですよ」で毎日飲み屋で一人飲んでいる藤竜也さん扮する風間さんというアヤシイくもカッコイイ男の真似をして、剣道の竹刀の袋のネクタイに口ヒゲを貼り付けたぼくが、着物を着た秘書的な女性がお盆に乗せて運んできたお酒をお猪口に注いでもらいグイッと飲む。そして、一言「退学だ」というだけの役だった。

撮影が全て終わると編集だ。そして次は20 分くらいにだろうか編集されたフィルムに音をつける作業。これは授業が始まる前の放送室の機材を使って行った。
セリフにSE、BGMをフィルムを見ながら当てて行ったのである。

毎朝始発電車に乗って駅から30分も暗い道を歩いて学校に通う日が続いた。
通り道にあるおかまバーのオネエさんたちが仕事がはけて出てきたところにいきなり出くわし驚いたことも鮮明に覚えている。あれがぼくの人生にとって初めての生のおかまちゃん体験だった。

そんなこんなで、確か十月の始め頃に行われた学園祭で教室に暗幕を張り巡らせて上映すると、お客さんはたくさん入ってきて、毎回ほぼ満員の大人気。

その内容は生徒たちには共感を得たのだろうが体制側にある教師たちの中には少なからずぼくらのことを嫌ったものもいた。

その後、仲間の一部の人が体育教師に個人的に理不尽な理由でリンチ的な暴力を受けたり、いわれのない体罰を受けたりしたこともあったことからも一部教師の中には「生意気な生徒」という空気が相当にあったのだろう。
当時の校長は映画でぼくの校長のシーンを見て「あんな校長はいない!」と怒ったそうだがフィクションの映画なのでそんなこと当たり前だ。
今となって思うとそういう学校側からの圧力がそれなりにあったはずなのに、ぼくらに直接それを感じさせてくれなかった影には担任の杉本先生という存在があったのだと思う。

小柄の女性の先生だったが、彼女は僕たちに「好きなことを自由にやって生きて良い」ということをおそらく体を張って教えてくれたのではないかと今になって思うと、あらためてお会いしてお礼が言いたくなるのであった。


長くなってしまったが、そういうある意味当時としてはかなり特殊なことを共に経験した友たちの精神的繋がり、共有感はとても強く45年も経てもお互い顔を見合わせると一瞬で45年前の高校生の顔になってしてしまい話に花が咲くのであった。

一方で、これだけの時間人生を過ごしてくれば誰にも様々な経験があり、お互い酸いも甘いも知り尽くしたおっさんとおばさんでもある。苦労話や病気自慢もそれなりに出てくるしお互い気持ちを共感できうなずきあえるのであった。

そんなこんなで三時間半があっという間に過ぎてしまい、明日から仕事のあるWが帰ると言うので店を出て駅まで送った後は歩いて20分ほどのぼくの実家で飲むことにした。

地元で飲むとこういうことができるので実に便利なのであるが、この時点で今日の飲み会はエンドレスになるであろうという予感がしていた。

さて、実家に着いた我々三人、玄関につないでおいたバカ犬を撫でようとしたI・Tが指を噛まれて結構な出血をしてしまうというハプニングがあったのだか、なんとか血が止まったので飲みなおす。

男三人になると話題も自ずとからってくるから面白い。
まずはぼくたち三人のそもそもの繋がりがどこから始まったのかというはないから始まった。

実はI・Sはぼくら映画仲間とはちょっと違う流れでの友人で、その辺りをお互い記憶をたどりながら検証していくと、どうやらぼくとISは高校卒業後のバンド繋がりで仲良くなったことがわかる。彼とはブルースバンドのようなものをやりI・Sはギター、ぼくはヤマハの安物テナーを吹いていた。

もう一つのつながるルートとして高校の映画仲間のK・ Aという男とI・Sが高校時代からとても仲がよくその関係を経由してぼくらもいつの間にか友達になってたようだ。
彼とぼくは大学生になってから一緒にスキーに行ったり、そこでナンパした女の子たちと中途半端に健全な交流をしたり、そのほかにいろいろと青春時代的悪さもやった。
I・Sに言わせると悪事をそそのかしたのは何時もぼくだというのだ。

数年前に彼が札幌に赴任した時は、彼の部屋を根城にぼくはスキー三昧をし、そのことをこのブログにも書いている。

不思議なのは I・Sと I・Tの関係なのであるが、映画でもバンドでも繋がりがなかった二人がそれなりにこうして語り合える関係にどうなったのかが分からない。

その関係の謎を解くようなぼくら二人の全く記憶になかったことを突然 I・Tが言ったので I・Sとぼくはうろたえ驚いた。
それは、成人し社会人になった後のことらしいのだが、バイクを買ったI・Sの後ろにぼくが乗ってI・Tの家に遊びに来たのだという。 
その時、走るバイクがカーブを曲がる時になかなか体を倒さずハンドルを切ってカーブしようとする I・Sの運転するバイクにぼくが後ろの席で先に体を倒しこんで走ってきたと言うのだ。

その話を聞いて I・Sの顔色が変わったのが面白い。なにかが頭の中で弾けたらしい。
「思い出した!それは俺だ!」と叫んだのだ。しかし I・Sは自分のバイクの後ろにぼくを乗せた記憶はないという。
ぼくの方も I・Sのバイクの後ろに乗ってどこかに出かけた記憶は全くなく、彼が400ccのバイクに乗っていた記憶すらないのだけれど、誰かに向かって「トロいバイクの運転をする奴の後ろに乗った時にカーブで先に体を倒した」という話をしたことと、I・Tの家に一度だけ行った記憶だけは鮮明に残っていたのだ。

このことは I・Sにとっては屈辱だったらしく、顔をくしゃくしゃにして屈しがる様がまた面白いのだが、ぼくは彼にそんな失礼をした記憶は全くないのだ。
しかし、三人の話を総合すると I・Tの言うように「二人はバイクで来た」という事実が浮かび上がらざるを得ないのである。

歴史的事実というのは記憶の中では曖昧になっていってしまうもので、歴史的体験を現場で目の当たりにしたからといってその人の言うことが全て正しいとは限らない。仮に当事者のものであっても記憶というのは自分に都合のいいことだけ残ることもあるし、とても曖昧だということがよく分かって面白かった。
歴史的事実を検証するには多角的に調査をしないと真実は浮かび上がらないものだということを思いもよらない酒の場で実感させられる。

一方でその時に記録されたものというのは、見方は主観的であってもとても鮮明に残ることも再認識された。


話を戻そう。
そんなぼくら三人も社会に出て仕事を始めるとそちらの社会が生活の中心となるのでお互い疎遠になり年賀状のやり取り程度の中になり二十年ほどの時が経つ。

ぼくと I・Sとの再会は突然やってきた。
十五年ほど前くらい、ぼくが関係していたある大手メーカーのショールームのオープンイベントでのこと。
当時ぼくはある衛星放送局でプロディーサーをしていたのだが、担当する番組のタレントさんがイベントに出ていただくことになり、ぼくはそのタレントさんの現場付きの係りをしていて、イベント本番の会場にタレントさんを案内しようとエレベーターに乗り利用階に到着してエレベーターのドアが開いた瞬間、目の前に I・Sが立っていたのだ。

びっくりしたのはぼくも彼も同じで、お互い何故そこにいるのか立場が全くわからない。とりあえずその場は挨拶だけして後でゆっくり話をしたのだが、建設関連の仕事をしていた彼はそこの現場責任者だったというのだ。

ぼくは彼の仕事を概ね知っていたので驚きはなかったのだが、I・Sにとては有名タレントと仲良くエレバーターから降りてきたぼくの姿が信じられなかったらしい。そのタレントさんはぼくらの青春時代に一斉を風靡した方だったので、高校時代のぼくの姿とそのタレントさんが同時に頭の中に飛び込んだ彼にとってはその関係がどう考えても繋がらない納得のいかないものだったらしいのだ。

そこで偶然出会ったぼくはそれから十年後に彼の赴任先の札幌に出向いて話は先ほどの話に回帰するのであるが、仕事一筋、現場一筋だった彼にとっては、仕事より遊び重視的な人生を送ってきたぼくが許せねいところがたくさんあるらしく、イマイマシイ存在になったといいその思いをまくし立てる姿がぼくには愉快でならなかった。

そのように、ぼくに対して心の中でどうしても許せない何かを持った彼であるが、ぼくは彼にとって札幌赴任中に関東からはるばる訪れた唯一の友人であり、その時仕事に出た彼を夕食を作って待っていたぼくに対する彼なりの愛情もあるらしいのだが、その相反する気持ちが彼の心の中で整理がつかないらしく今だにもどかしい思いをしているらしい。
それが証拠に、現在でも時々ぼくのブログを読んでは、遊び廻っているぼくにイラつきながらもついつい最後まで読んでしまい、また腹を立てる生活をしていることを白状していた。


このように、40年以上の付き合いの中で様々な思いがあり、楽しく、辛い時間を共有し、時には個々 に苦労してきた話も自分のことのように共感しながら話をしていたら、時間の経つのは早く、気がつけば焼酎、ワイン各一本、ビール半ダースが空になり飲む酒がなくなってしまったので、Eno Cafe実家店を急遽開いてコーヒー・ブレイク。
時計を見れば六時半を回っている。楽しく幸せな時間の過ぎるのは早い。
まさか還暦を迎える年の正月二日に徹夜で飲み明かそうとは夢にも思って見なかったのだが、なんとも言えない人生の充実感と幸福感に包まれながら薄明るくなった外へ出た。


二人が各々自宅に向かい分かれる場所まで犬の散歩がてら見送り行き別れた。
年をとるのも悪いことじゃないような気分になれ今年はいい年になるに違いないと感じた。


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