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カテゴリー「友達」の記事

2018年8月 8日 (水)

旧友に会いに諏訪へ

二人の旧友に会いに長野の諏訪へ出かけた。

二人はそれぞれ高校時代、浪人時代からの友人でお互いのほぼ面識はない別々なお友達。
まずは浪人時代からの友人Tの家を訪ねる。
Tとの出会いは高校時代のこれまた別な友人Kという男が、僕が浪人中に家を訪ねた際、「この近所に大学の同級生がいるぜ」というので一緒に遊びに行ったところ我が家から200メートルも離れていないところに住んでいたのがTだった。
Tとは初対面の時から妙に気が合い、家が近いこともあってそれからというもの始終遊びに行ったり遊びに来たりという関係になり、彼が大学を卒業して就職するまでの間深い付き合いをした。埴谷雄高、開高健を彼から学んだ。ジャズもよく聴いた仲だ。

お互いの結婚式に呼んだり呼ばれたりしつつ、子育て期間中は付き合いが遠ざかったものの、数年前に長野にスキーに出かけたついでに再会したのがきっかけでここ数年何度か会っている。

今回彼と会うのは一昨年以来の二年ぶり。土曜日の朝早く渋滞を避けて家を出たので午前9時に着いてしまった。挨拶を交わして家に招き入れられていきなり自分で持ち込んだコーヒーを淹れてEnoCafeを始める。

近況など語り合いながらコーヒーを飲みくつろぐ。そのまま昼間でダラダラしたあとお蕎麦やさんにてお蕎麦と天丼のセットをご馳走になり、彼の家に戻ってからは一人でビールを飲んで酔っ払って昼寝した。迷惑な来客だ。

夕方奥様も合流して買い物に出て、酒や馬刺しをはじめとしたツマミ類を買い込む。
再び家に戻ったらもう酒を飲むしかすることはない。Tのかけるレコードを聴きながら昔話や近況に花が咲き始める。
普段電話やSNSでやりとりすることもないので二年分の積もった話があることはあるのだ。
家族の皆さんが合流して夕食を経ながらもビール、ウィスキー、バーボンと飲み進み気がつけば日付が変わっている。最後に奥様の歌うジャズのライブ映像を見せていただいた。この奥様は十年ほど前から地元のジャズ仲間とヴォーカルの練習をしており先日このグループの10周年記念のライブをやったその映像を見たのであります。歌の方はなかなかのものでスウィングしていてよかった。そのままいい気分で眠りに入り爆睡する。

翌朝、朝食をとりまったりしていたところにもう一人の友人Kから電話が入る。
10時を過ぎたら暇になるから来い、というので10時過ぎにT夫妻と三人で出かけた。
Kはこの春先に諏訪に越してきた男でその前は飯綱高原という所にいた。

彼とは高校時代の同級生で、僕にジャズを教え込んだのがKなのだ。
当時のKはロック大全盛時代に「ジャズはいいんだぜ」という一人だけちょっと変わったやつで、コルトレーンのレコードを学校に持ってきてロック仲間が集まった音楽室でレコードをかけた時はみんなキョトンとしてコルトレーンを聴いていた。なんだかさっぱり理解できなかったのだろう。僕もその一人だったのだがそれをきっかけにジャズに興味を持つようになりそのままのめり込んだ。
やがてKが気まぐれで買ったと思われるヤマハのテナーサックスを買い取りサックスを始めた。その流れで浪人後に入った大学ではジャズ研に入り大学時代を棒に降る。さらに人生も棒に振りかけるという、僕の人生に大きな影響を与えたのがKという男なのだ。

そんなKは上諏訪駅から坂道を数分登ったところで素泊まりの宿を始めていた。そのことは彼のところを訪ねて初めて知った。「シャンブル・ドット・たたみ」という名のその宿は洒落たデザインと作りで狭いながらも素敵な宿だった。

KとKの奥さんにT夫妻を紹介したところ、なんとKの奥さんとT夫妻の出身地がごく近所で、小学校も中学校も学年こそ違えど同じ学校に通ったということが判明し話が盛り上がる。出会いというのは偶然と驚きをもって時に人をハッピーにさせてくれるものだ。

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昔話にそれぞれ花が咲きあっという間に時間が流れひりになったのでK家を失礼してT夫妻と昼食を食べた。食後Tの家に帰り一服して休んだのち僕は安曇野に向かう用事があったのでTの家に一宿一飯、いや四飯の礼を言い別れた。

行き先の安曇野には大学のジャズ研の先輩が営むスペイン料理屋があり、この日は夕方からジャズ研のOBが集まり、セッションをしながら宴会をするのだった。

TとK二人のジャズ仲間の先にあったのが大学のジャズ研だった。今また同じ道を辿り僕は諏訪から安曇野に向かい車を走らせたのだった。



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2017年3月27日 (月)

懐かしい友と旅をする@別所温泉 長野

高校時代からの古い友人たちと一泊旅行に出かけた。

長野の別所温泉で一泊して厄払いをしようと言い出したのは長野在住のKという男。
彼は高校当時、僕のいた埼玉の高校に都内から転校してきた都会的な雰囲気を持った男で、僕にジャズという音楽を教えてくれた。

当時の音楽大好き高校生の最先端はプログレだったので、彼が持ってきたジャズのレコードを音楽室で鳴らした時にそれがどう良いのか理解できたものはいなかったように思う。

僕もそのうちの一人だったけれど心のどこかに引っかかるものがあり、ジャズを聴いてみようと彼にどんなレコードを買えば良いのか相談したのがジャズを聴くようになるきっかけだった。

その後すっかりジャズにのめり込み、Kが持っていたヤマハのテナー・サックスを買いとり大学ではジャズ研に入り、というよりむしろジャズ研に入りたくて大学に行ったようなものだ。

よって、大学時代はジャズびたりの毎日。
卒業後も何か音楽に関われるような仕事をと転々としながら今に至る。

彼との出会いが僕の人生の方向を大きく買えたのは明らかだった。

今回の旅には参加しなかったが、高校二年生の時に学祭で映画を作って発表しようと、当時では考えられないような突拍子のないことを言い出した男がいる。
彼の言葉になぜか賛同した数名がそこに集まり、実際に映画を作り上げてしまったのだが、その時の仲間が今回の温泉旅行の主たるメンバーだ。

ビデオも無い8ミリ映画の時代にどうやって経費を捻出したのかも定かでは無いが、とにかく僕らは高校二年、三年の間に二本の映画を作り学祭で上映した。

それぞれ部活をしているものしていないもの様々だったけれど、映画作りが僕らを強く結びつけてくれた。

映画というのはさまざなな職能、才能をもつもの総合芸術だ。
そういうものを集まったメンバーたちは自然に発揮しお互い認め合い力を合わせたことが数十年経った今も僕らの人間関係を成り立たせてくれているのだと思う。

人生も終盤に差し掛かろうかという僕らなので、この数十年の間に辛いこと、楽しいこと、それぞれが様々な経験をしてきたのだと思う。

その間、僕らは必ずしも常に共にいたわけではなく、この数年になって再開したので、今回の一泊旅行ではそれぞれの自分の人生の棚卸的会話で話が弾んだ。

じっくり話せばみんなそれぞれに辛い経験や悲しい経験を積み重ねて大人になっている。まあ、人生は誰もがそういうものなのであろうけれど、そういうことを素直に語り合い、共感し、ある時は批判しあえる仲の友達関係というのはありそうでなかなか無いものではないだろうか。

当日は旅館への午後三時のチェック・インを待てずに強引に部屋に上がり込んだ僕を含む先発隊は部屋に入るや早速ウイスキーや焼酎を思い思いに飲み始め、およそ一時間半後に全員が揃えば自ずと宴会となる。

中には数十年ぶりの再会をするものもあり、宴会と言っても馬鹿騒ぎするのではなく、近況報告や過去の想いの清算など語りたい事はいくらでもある。時間はいくらあっても足らないのだ。

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夕食を食べて一風呂浴びてから再び飲み会に突入。
この時点で仕事の疲れもあってか一気に飲みすぎたのか既にダウンしてしまうものも出たが、風呂を浴びてさっぱりした僕は浴衣姿で楽器を取り出してKにギターを弾かせてジャズを何曲かやった。

お前の教えてくれたジャズをこの程度にはできるようになったのだぞ。と自慢したかったのだ。

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その後は生演奏でカラオケを数曲やってからは過去の清算大会に突入する。

忘れていた記憶が突然引き出しから引き出されたように飛び出したり、自分だけ全く記憶にない事柄をみんなが共有していたり、初めて知らされる真実があったりして、驚きや笑いの連発。なぜかこの仲間の前では素直になれる。最後は今抱えている問題を親身に相談に乗ったりしていたりしてみんな優しいのだ。

気がついたら午前三時を回っていたので、翌日の運転がある僕は先に床に入ったが、残ったメンバーはその後も四時頃まで飲んでいたらしい。

翌朝は、と言っても数時間後七時には起きて朝風呂に入り朝食をとり最後はEnoCafeの美味しいコーヒーで締めた。

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お風呂も食事もチェック・アウトもたくさんのお客さんの中でいつも僕らが一番最後だった。

チェック・アウト後に近くの北向観音まで歩き厄払いのお参りをして、記念の写真を何枚かとった。
みんないい顔している。寝不足の二日酔いとは思えない。

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宿を離れてから隣町まで「牛乳パン」なるものを求めて小一時間のドライブ。
着いた先の小さなパン屋さんでは既に売り切れており、卸先の上田市内のスーパーへ向かう。

このあたりで僕は眠さの限界で運転も交代してもらった。
スーパーで無事「牛乳パン」に出会うことができたので一同購入し、さらにお土産コーナーも充実していたので土産物を買い込むと、今度は昼食を求めて上田市内を蕎麦屋を求めて彷徨うが昼時で満員のためは入れず。

上田城公園に行きで店で何か買って食べようということになったけれど、行ってみたら真田丸人気で人ばかり、僕は疲れ果てて駐車場の車の中で寝た。

結局ここでも昼食にありつけなかったらしく、長野在住のK、電車で来た女性二人と僕たち車組四人は再会を誓いここで別れ帰路に向かった。

途中高速のサービス・エリアで遅いお昼を食べたが、ここでも僕は車内に残り寝ていた。

車内でも昨夜の話の続きやこの二日間の楽しかったことなど話していたら、信州からのおよそ200キロの道のりは短く感じあっという間に解散する駅に到着してしまった。

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      行く道は異なれど、いい距離感で付き合っている僕らを象徴するような一枚

あっという間の二日間だったけれども、とても濃くて楽しい時間だった。
僕にとっては自分の人生を走馬灯のように振り返る旅だった。
人は自分の死ぬ一瞬にそういう体験をするとういうけれど、二日間もかけてじっくり振り返ることができ、さらにまだいくばくかの余生が僕にはある。
僕の人生はとても素敵でいい人生なんじゃないかと思う旅だった。


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2017年1月 4日 (水)

還暦の正月は徹夜飲み

スピリチュアルに開けた2017年であったが、二日目は夕方から高校時代の友人数人で新年会をやることになった。

現在仕事に赴任している I・S(テロリストではない)という友人が正月に帰省するから久しぶりに会おうじゃないか、ということから都合のつく人に声をかけて実現することになった。

夕方五時前に朝霞台・北朝霞という二つの駅の前にある居酒屋に集合。
この日来たのは先ほどのI・Sに I・T(コンピュータ関係の仕事ではない)、愛称Wに私の四人。Wは唯一の女性。

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ぼくたちの繋がりは高校二年生の時に学園祭で映画を作って上映するという、当時としては考えられない革新的なことをやったことから始まる。

ぼくらは昨年から今年3月にかけて還暦を迎えるので、高校時代というのは今から45年から42年前くらいの1973から75年の頃のこと。

この頃の世の中は高度経済成長期にあり物価はどんどん上がるし、畑はどんどん住宅になり、道路は砂利道から舗装道路へ、学生運動が盛んであったがピークは超えていた。

ぼくたちの世代は子供も多かったのでぼくらの通った埼玉県南部にある県立高校の一学年のクラスはなんと八クラスもあった。


最初に映画を作ろう、と言い出したのはこの日は疎遠になってしまったSという男なのだが、その映画の話が出るまではぼくらは特に強い繋がりがあったわけでもなくたいして口を聞くわけでもない程度の付き合いだった。

高校二年生のホームルームの時に「学園祭でクラスとして何かをやりましょう」的な話が出た時に、「映画を作ろう」と言い出すSに対し大半のクラスメイトは「何を言っているんだこいつは?あほか」的な空気が流れた時に「やろう」と手を挙げた数人が今でも強い繋がりの友達として付き合っているのである。

今となっては高校に映画部があるというのは当たり前の時代だけれど、当時は当然ホーム・ビデオなどいうものは存在しない時代なので、「映画を作る」ということが具体的に何をどうするのか?ということすらイメージできないような時代だった。


そんな時に8ミリフィルムを使い、それも音声は同録できないタイプのものを使っての映画製作をしようというのだから、それに賛同したぼくらはある意味皆変わり者で物好き、言い方を変えれば好奇心のとても強い高校生だったのかもしれない。
いざ製作となればまずはカメラをどこで手に入れるかが問題だった。フィルム代だけでも随分お金がかかったろう。
どうやってカメラを手に入れたのか、製作の資金をどう捻出したのかは良く覚えてない、おそらく言い出しっぺのSが小遣いを出したのではないか?フィルムの現像代を安く抑えるために親が写真屋さんをしていたYという女の子も仲間に引きずり込んだ。

台本はSが書いて監督もやった。

カメラマンはI・T、主人公はW、 ぼくは雑用と役者の掛け持ちだった。

この年に作った映画の内容は学生青春ものなのだが、当時の高校のがんじがらめの校則なんかぶち破って自由に生きよう!というメッセージを込めた内容の映画だった。

夏休み中に空っぽの学校を使って撮影をしたのだが、校長室を使って校長役に扮したぼくが主人公に退学を宣告するシーンを撮ったことを鮮明に覚えている。

当時人気のTVドラマ「時間ですよ」で毎日飲み屋で一人飲んでいる藤竜也さん扮する風間さんというアヤシイくもカッコイイ男の真似をして、剣道の竹刀の袋のネクタイに口ヒゲを貼り付けたぼくが、着物を着た秘書的な女性がお盆に乗せて運んできたお酒をお猪口に注いでもらいグイッと飲む。そして、一言「退学だ」というだけの役だった。

撮影が全て終わると編集だ。そして次は20 分くらいにだろうか編集されたフィルムに音をつける作業。これは授業が始まる前の放送室の機材を使って行った。
セリフにSE、BGMをフィルムを見ながら当てて行ったのである。

毎朝始発電車に乗って駅から30分も暗い道を歩いて学校に通う日が続いた。
通り道にあるおかまバーのオネエさんたちが仕事がはけて出てきたところにいきなり出くわし驚いたことも鮮明に覚えている。あれがぼくの人生にとって初めての生のおかまちゃん体験だった。

そんなこんなで、確か十月の始め頃に行われた学園祭で教室に暗幕を張り巡らせて上映すると、お客さんはたくさん入ってきて、毎回ほぼ満員の大人気。

その内容は生徒たちには共感を得たのだろうが体制側にある教師たちの中には少なからずぼくらのことを嫌ったものもいた。

その後、仲間の一部の人が体育教師に個人的に理不尽な理由でリンチ的な暴力を受けたり、いわれのない体罰を受けたりしたこともあったことからも一部教師の中には「生意気な生徒」という空気が相当にあったのだろう。
当時の校長は映画でぼくの校長のシーンを見て「あんな校長はいない!」と怒ったそうだがフィクションの映画なのでそんなこと当たり前だ。
今となって思うとそういう学校側からの圧力がそれなりにあったはずなのに、ぼくらに直接それを感じさせてくれなかった影には担任の杉本先生という存在があったのだと思う。

小柄の女性の先生だったが、彼女は僕たちに「好きなことを自由にやって生きて良い」ということをおそらく体を張って教えてくれたのではないかと今になって思うと、あらためてお会いしてお礼が言いたくなるのであった。


長くなってしまったが、そういうある意味当時としてはかなり特殊なことを共に経験した友たちの精神的繋がり、共有感はとても強く45年も経てもお互い顔を見合わせると一瞬で45年前の高校生の顔になってしてしまい話に花が咲くのであった。

一方で、これだけの時間人生を過ごしてくれば誰にも様々な経験があり、お互い酸いも甘いも知り尽くしたおっさんとおばさんでもある。苦労話や病気自慢もそれなりに出てくるしお互い気持ちを共感できうなずきあえるのであった。

そんなこんなで三時間半があっという間に過ぎてしまい、明日から仕事のあるWが帰ると言うので店を出て駅まで送った後は歩いて20分ほどのぼくの実家で飲むことにした。

地元で飲むとこういうことができるので実に便利なのであるが、この時点で今日の飲み会はエンドレスになるであろうという予感がしていた。

さて、実家に着いた我々三人、玄関につないでおいたバカ犬を撫でようとしたI・Tが指を噛まれて結構な出血をしてしまうというハプニングがあったのだか、なんとか血が止まったので飲みなおす。

男三人になると話題も自ずとからってくるから面白い。
まずはぼくたち三人のそもそもの繋がりがどこから始まったのかというはないから始まった。

実はI・Sはぼくら映画仲間とはちょっと違う流れでの友人で、その辺りをお互い記憶をたどりながら検証していくと、どうやらぼくとISは高校卒業後のバンド繋がりで仲良くなったことがわかる。彼とはブルースバンドのようなものをやりI・Sはギター、ぼくはヤマハの安物テナーを吹いていた。

もう一つのつながるルートとして高校の映画仲間のK・ Aという男とI・Sが高校時代からとても仲がよくその関係を経由してぼくらもいつの間にか友達になってたようだ。
彼とぼくは大学生になってから一緒にスキーに行ったり、そこでナンパした女の子たちと中途半端に健全な交流をしたり、そのほかにいろいろと青春時代的悪さもやった。
I・Sに言わせると悪事をそそのかしたのは何時もぼくだというのだ。

数年前に彼が札幌に赴任した時は、彼の部屋を根城にぼくはスキー三昧をし、そのことをこのブログにも書いている。

不思議なのは I・Sと I・Tの関係なのであるが、映画でもバンドでも繋がりがなかった二人がそれなりにこうして語り合える関係にどうなったのかが分からない。

その関係の謎を解くようなぼくら二人の全く記憶になかったことを突然 I・Tが言ったので I・Sとぼくはうろたえ驚いた。
それは、成人し社会人になった後のことらしいのだが、バイクを買ったI・Sの後ろにぼくが乗ってI・Tの家に遊びに来たのだという。 
その時、走るバイクがカーブを曲がる時になかなか体を倒さずハンドルを切ってカーブしようとする I・Sの運転するバイクにぼくが後ろの席で先に体を倒しこんで走ってきたと言うのだ。

その話を聞いて I・Sの顔色が変わったのが面白い。なにかが頭の中で弾けたらしい。
「思い出した!それは俺だ!」と叫んだのだ。しかし I・Sは自分のバイクの後ろにぼくを乗せた記憶はないという。
ぼくの方も I・Sのバイクの後ろに乗ってどこかに出かけた記憶は全くなく、彼が400ccのバイクに乗っていた記憶すらないのだけれど、誰かに向かって「トロいバイクの運転をする奴の後ろに乗った時にカーブで先に体を倒した」という話をしたことと、I・Tの家に一度だけ行った記憶だけは鮮明に残っていたのだ。

このことは I・Sにとっては屈辱だったらしく、顔をくしゃくしゃにして屈しがる様がまた面白いのだが、ぼくは彼にそんな失礼をした記憶は全くないのだ。
しかし、三人の話を総合すると I・Tの言うように「二人はバイクで来た」という事実が浮かび上がらざるを得ないのである。

歴史的事実というのは記憶の中では曖昧になっていってしまうもので、歴史的体験を現場で目の当たりにしたからといってその人の言うことが全て正しいとは限らない。仮に当事者のものであっても記憶というのは自分に都合のいいことだけ残ることもあるし、とても曖昧だということがよく分かって面白かった。
歴史的事実を検証するには多角的に調査をしないと真実は浮かび上がらないものだということを思いもよらない酒の場で実感させられる。

一方でその時に記録されたものというのは、見方は主観的であってもとても鮮明に残ることも再認識された。


話を戻そう。
そんなぼくら三人も社会に出て仕事を始めるとそちらの社会が生活の中心となるのでお互い疎遠になり年賀状のやり取り程度の中になり二十年ほどの時が経つ。

ぼくと I・Sとの再会は突然やってきた。
十五年ほど前くらい、ぼくが関係していたある大手メーカーのショールームのオープンイベントでのこと。
当時ぼくはある衛星放送局でプロディーサーをしていたのだが、担当する番組のタレントさんがイベントに出ていただくことになり、ぼくはそのタレントさんの現場付きの係りをしていて、イベント本番の会場にタレントさんを案内しようとエレベーターに乗り利用階に到着してエレベーターのドアが開いた瞬間、目の前に I・Sが立っていたのだ。

びっくりしたのはぼくも彼も同じで、お互い何故そこにいるのか立場が全くわからない。とりあえずその場は挨拶だけして後でゆっくり話をしたのだが、建設関連の仕事をしていた彼はそこの現場責任者だったというのだ。

ぼくは彼の仕事を概ね知っていたので驚きはなかったのだが、I・Sにとては有名タレントと仲良くエレバーターから降りてきたぼくの姿が信じられなかったらしい。そのタレントさんはぼくらの青春時代に一斉を風靡した方だったので、高校時代のぼくの姿とそのタレントさんが同時に頭の中に飛び込んだ彼にとってはその関係がどう考えても繋がらない納得のいかないものだったらしいのだ。

そこで偶然出会ったぼくはそれから十年後に彼の赴任先の札幌に出向いて話は先ほどの話に回帰するのであるが、仕事一筋、現場一筋だった彼にとっては、仕事より遊び重視的な人生を送ってきたぼくが許せねいところがたくさんあるらしく、イマイマシイ存在になったといいその思いをまくし立てる姿がぼくには愉快でならなかった。

そのように、ぼくに対して心の中でどうしても許せない何かを持った彼であるが、ぼくは彼にとって札幌赴任中に関東からはるばる訪れた唯一の友人であり、その時仕事に出た彼を夕食を作って待っていたぼくに対する彼なりの愛情もあるらしいのだが、その相反する気持ちが彼の心の中で整理がつかないらしく今だにもどかしい思いをしているらしい。
それが証拠に、現在でも時々ぼくのブログを読んでは、遊び廻っているぼくにイラつきながらもついつい最後まで読んでしまい、また腹を立てる生活をしていることを白状していた。


このように、40年以上の付き合いの中で様々な思いがあり、楽しく、辛い時間を共有し、時には個々 に苦労してきた話も自分のことのように共感しながら話をしていたら、時間の経つのは早く、気がつけば焼酎、ワイン各一本、ビール半ダースが空になり飲む酒がなくなってしまったので、Eno Cafe実家店を急遽開いてコーヒー・ブレイク。
時計を見れば六時半を回っている。楽しく幸せな時間の過ぎるのは早い。
まさか還暦を迎える年の正月二日に徹夜で飲み明かそうとは夢にも思って見なかったのだが、なんとも言えない人生の充実感と幸福感に包まれながら薄明るくなった外へ出た。


二人が各々自宅に向かい分かれる場所まで犬の散歩がてら見送り行き別れた。
年をとるのも悪いことじゃないような気分になれ今年はいい年になるに違いないと感じた。


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2015年11月18日 (水)

生きていれば悲しいこともあるんだよ

本ブログの基本方針として楽しいことを伝えることを本分としているのですが、生きているとたまにはどうしても悲しいことも書きたくなることがある。

高校時代からの親友のお母さんが亡くなってしまったのだ。

高校時代、ジャズにはまった頃、僕と同様にジャズにはまってしまった友人がいた。
放課後、僕は毎日のようにその友人の家に遊びに行き、コーヒーを飲んではマイルス・デイビスやクリフォード・ブラウンなど、当時少ない小遣いを貯めてやっと買い込んだ数枚のレコードを毎日毎日繰り返して聞いていた。

夕方暗くなった頃、仕事から帰ってきたその友人のお母さんは、勉強もせずに毎日ジャズばかり大音量で聴いている僕たちに小言の一つも、嫌な顔も見せることもなく、いつもニコニコ優しく接してくれていた。

笑顔が素敵で、なかなかの美人だった。自分の母親と同じくらいの年齢のそのお母さんだったが、とてもフレンドリーで素敵な人だった。

お父さんという人も、素敵な人で、僕らに説教することはなく、一緒に酒を飲んでは時々三線を手に沖縄民謡を聴かせてくれた。沖縄出身の人なのだ。

高校卒業後は、その友人の家には僕以外にもたくさんの遊び仲間が集まるようになり、かれの部屋が二階から一階に移動してきてからは、みな玄関を通らずに庭から直接友人の部屋に上がりこむようになり、遊びに行くと誰かしらがいる、という僕らの仲間内でのたまり場にすっかりなってしまった。

ある正月のこと、両親が実家か何かに出かけて留守にしていた時のこと。
僕ら悪友数人はけれの家に泊まり込んで、毎日朝から夜中まで酒を飲んではジャズを聴いたり馬鹿話したりで数日間過ごしたことがある。

夜中まで酒を飲むので、翌朝の遅い時間に目を覚ました僕らはぐったりしていて、さすがに酒を飲む気にはならず、コーヒーなど飲みながらジャズをかけて大人しくしているのだが、お昼を回る頃になると誰ともなくビールや日本酒に手を出すものが出てきて、気がつけばまた酒宴が始まる、というのを繰り返した。

この時格好のおつまみになったのが、彼の家の物置に漬けてあった白菜漬け。
おそらく一冬分漬け込んであったのだろう。大きなバケツにぎっしりと白菜が漬けてあるのを誰かが発見してしまったのが運の尽き。

最初は遠慮がちに少しずつ出しては食べていたのが、二日目くらいに「キムチの素」など購入してくるものがいて、白菜の消費は一気に加速し、確か四日くらいだったろうか、家族が帰ってくるという日の朝には白菜漬けのバケツは空になってしまっていた。

ヤバイかなあ、なんて思いながらも飲み飽きた悪友どもは帰って行き彼の家族が帰ってきたら、おそらく出かけた後で疲れているので、簡単にあっさり漬物でご飯でも、なんていうことになったのであろう。ところがあてにしていた白菜漬けは空っぽ。一切れも残っていない。さすがにこれにはけれの両親も切れたらしく、こっぴどく叱られたということを後日その友人からきいたのだが、僕らはバカなので何も悪びれることもなくその後も友人宅に集まっていった。

そんな時、直接顔を合わせた彼の両親は白菜の件で我々を咎めることもなく、これまで通り接してくれたのが嬉しかった。

実の親だったら、きっときつく叱られただろう。
勉強しないでジャズばかり聴いていることにだって小言を言われた違いない。
僕らには友人の両親、特にこのお母さんがいてくれたので遊ぶ、そして学ぶ場所を失わずにすんだのだった。

浪人中のこと、僕がそのお母さんと何かの会話の中で「新宿に行くんだけれど500円しか持っていない。これだけあればジャズ喫茶でビールが飲める」というようなことを話したら、「勇気あるわねえ、私なんか一万円は持たないと恐くて都会には出られないわよ」と未成年の息子と同い年の僕に笑いながら話していたのをなぜかはっきり覚えている。

親友のお母さんの告別式に参列した。
早く到着した僕は、友人の弟さんに許可を取って亡くなったお母さんの顔を見させてもらった。祭壇に飾られたそのお母さんの写真はかつて世話になった頃の面影の残る優しい笑顔だったが、棺の中の顔にその面影はなくなっていた。

僕はその顔を見た途端涙が溢れてきて、我慢するのだけれども、次々と涙が溢れてきてどうすることもできなくなった。

喜びや楽しみと悲しみというのは表裏一体なんだと思う。
喜び、楽しみが大きければ大きいほどそれを失った悲しみも大きい。
かつての美人だった面影を失った棺の中の顔を見て、僕の中の大きな何かが失われ悲しみが溢れてきたのだ。

やがて、告別式はつつがなく執り行われ、出棺まえの最後のお別れの時、もう一度顔を見た時も再び涙が溢れ出てきた。
今度はもう少し冷静でいられるかと思ったのに。

友人のお母さんが数年前から難病にかかり寝たきりなってしまっていたことは知っていたので、僕自身の中でもいつかはこういう日が来るのだろう、と覚悟していたし、亡くなった一報を聞いた時も、「ああ、とうとうその日が来てしまったか」と思った程度だった。

しかし、いざ本人の亡骸を目の前にした途端たくさんの思い出が心の中に一気に飛び出してきて、僕は感情をコントロールできなくなってしまったようだ。

お母さんのおかげで僕は立派なジャズ大好き人間に成長し、大学時代にはテナーサックスを習い始め、途中ブランクは長かったけれども、今も時々当時にジャズ仲間と集まってサックスを吹くという豊かな人生を暮らしている。

晩年のお母さんは60歳を過ぎてから英語を勉強したり、フラダンスを踊ったりと人生を謳歌していたと式の中ではじめて聞いた。
僕はその生き方に強く共感し、またそのことはとても嬉しかった。
僕の中でお母さんの何かが生き続けているに違いないと強く感じたのだった。

生きていくということは、人の死に向き合うことに他ならず、長く生きればそれだけたくさんの死に向き合わなければならいことは分かっていたつもりだか、いざ自分の身に降りかかると耐えきれない悲しみに襲われ、大きな喪失感に襲われる。

昨年のちょうど今頃には仕事仲間だったカメラマンの遠藤さんという友人を、そして今年の春先には学生時代の親友を失った。

これからも、こうした悲しみを乗り越えていかなければならないと思うと辛い気持ちになってしまうのだが、前を向いていこう。辛く悲しい分だけ楽しく幸せだったのだと思って生きていくとしよう。

斎場を出て行く霊柩車を見送り、自分の運転する車に乗って帰路に着いた。
朝降っていた雨はいつの間にかあがり、フロントグラスからは日が差し込み青い空がいっぱいに見えた。
ところが突然、ぱらぱらっと雨粒が落ちてきてフロントグラスに雨粒が散らばった。

明るい日差しに鮮やかな青空とフロント・ガラスに広がった雨粒とのコントラストは、悲しみに沈んでいた僕の気持ちを何故か勇気付づけてくれているような気がした。


本文を亡き親友のお母さんに捧げるとともにお母さんの冥福をお祈りたします。

2014年11月18日 (火)

カメラマン遠藤政史さんの訃報 続報

カメラマン遠藤政史さんが亡くなった事を本ブログにて書きましたが、その後少し詳しい事情が分かったので書きたいと思います。

死亡したのは10月8日(水)深夜から翌9日の朝にかけてだそうです。

9日朝帰宅した息子さんが部屋の中で倒れているのを発見、その時すでに死亡していたそうです。

警察の鑑識によると、首からの採血の結果死因は脳出血と断定、密室で亡くなっていたため事件性も薄いとの事で司法解剖はしなかった様です。

8日の晩、飲み屋で倒れて家まで送られて来たという情報もあるらしいのですが、確かではありません。

何れにしても、誰にも迷惑をかけないで逝ってしまう、遠藤さんらしい最後だったなと思います。
遺体は火葬され、故人の遺志で葉山の沖に散骨する準備がされていますが、散骨の時期は未定です。


遠藤さんとはおよそ10数年、様々な仕事を御一緒させていただきました。
特に、滋賀県立琵琶湖博物館、さいたま川の博物館などの展示映像を数年がかりで作った作品の事は鮮明に覚えています。

一見、いい加減な素振りをみせながらも作品や映画に対する思入れの深さ、制作に対する厳しい目、映像を作る楽しさなどたくさんの事を私に教えていただきました。
夜の宴会ではよく飲みばか騒ぎもしました。二日酔いで翌日の撮影に支障を来す事などもありましたが、いざというときはお酒もセーブしていたように思えます。

一方で遊びでは私の方が釣りの師匠。
一向に上達しないあまり出来のいい弟子ではなかった遠ちゃんでしたが共に過ごした楽しい時間は忘れる事が出来ません。
河口湖での生まれて最初の1匹を釣ったとき、山中湖で入れ食いになった時の笑顔は今でも良く覚えています。

スキーにも何度か行きました。
こちらもあまり上達しませんでしたが、楽しそうに滑っている姿はやはり忘れる事は出来ません。

遠藤さんと過ごした楽しい時間は、時が止まったように私の脳裏に焼き付いています。
生きる事の楽しさを体いっぱいで表現していたようにも思います。
「人生一度なんだから精一杯楽しまないとね」といつも語りかけてくれている様でした。

先週、かつての仕事仲間とご焼香にご自宅に伺ったのですが、手違いでご焼香する事が出来ませんでした。
遺骨も位牌もまだ目にしていないので、遠藤さんの死を未だに実感できません。
どこか飲み屋でふらっと現れ「久しぶりじゃん」て声をかけられそうな気がしています。
後日、葉山での散骨時には出かけて、船には親族一名しか乗れないそうですので、乗船前にお祈りをしたいと思っています。

遠藤さん、ありがとうございました。
あなたの人生に感謝しています。
改めてご冥福をお祈りいたします。



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2014年11月 4日 (火)

カメラマン遠藤政史さんの訃報

とても悲しいお知らせです。
昨夜遅く帰宅してFaceBookを開いたら、カメラマンの遠藤政史さんの訃報が飛び込んできました。

遠藤さんは映画カメラマンで私とは映画以外の映像作品でおつき合いさせていただきました。
遠藤さんとは長年いろいろな作品でお世話になる一方釣り仲間、飲み仲間としても親しくさせていただいた間柄。

訃報の第一報を入れてくれたT氏によると、詳細は不明、家族とも連絡が取れないとか。

新しい情報が入り次第連絡をくれるとのことです。
私も、遠藤さんの近くに住むS氏に連絡を取った所、つい数週間前に会っている、との事なので誤報である事を祈っていたのですが、たった今そのS氏から電話があり、やはり亡くなったらしいとの情報が入りました。
最後は飲み屋で飲んでいる最中に倒れたとか。

今はまだ遠藤さんの死を受け入れられていない、実感の湧かない心境なのですが、
どうやら事実として受け止めなければならない様です。
親しい友人の死に直面するのは、この年齢になって初めてなので正直、どうしたら良いのか分からない状態です。

ともかくは、ご本人の冥福をお祈りいたします。


この件について、情報をお持ちの方がいらしたら連絡ください。
よろしくお願いいたします。

2014年9月16日 (火)

今年も反省なし@吐夢  阿佐ヶ谷

8月に出演した福島県二本松市の丸やグループ・サマー・フェスティバルの反省会が行われました。

場所は中央線阿佐ヶ谷駅からほど近い吐夢というジャズ喫茶。
このお店を無理矢理開店時間を早めてもらって飲むという強引な飲み会です。

実はこの阿佐ヶ谷という街は、ワタクシたちH大ジャズ研にとっては切っても切り離せない街なんです。

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今から37年前の大学ジャズ研時代の日常生活はというと、大学にあった学生会館という学生自主管理のサークルおよび自治会の入ったビルにあった部室で、楽器の練習あるいはジャズについての熱い討論などあまりなく、ぐだぐだとしたあと神楽坂入り口にあった東山というお店でモロキュウ、納豆など比較的安価なおつまみを中心に終電まで酒を飲む毎日でした。

近郊から通う学生(ワタクシのこと)はすでに終電はなく、しかたなくアパート暮らしの学友の住む町に流れそこで再び朝方までしこたま酒を飲み意識無くアパートに転がり込み、翌日は日が高くなった時間にアパートを出て、洋食食堂で脂っこいランチを注文しその喉の通り具合で一日の体調を計るという日々を送っておりました。
その街こそ阿佐ヶ谷の街だったのです。

およそ35年ぶりに訪れた阿佐ヶ谷の街は時代の流れとともに大きく変わってありながらも昔の面影を残すお店などもいくつか残っており、そんなお店の一つが吐夢で ありました。

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その日夕方、まだ明るい時間に駅をおりると、駅前ロータリー周辺には祭りの提灯が飾られており、すぐに祭りをやっていることを知り、ちょっと待ち合わせ時間まで時間があるのでダイヤ街方面に歩いていこうとすると遠くから御神輿を担ぐ威勢のいい声が聞こえてきてやがて御神輿が登場。

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現役時代にも見ることの無かった阿佐ヶ谷の御神輿を見ながら、この街の人たちもがんばってるんだなあ、と感慨ひとしお。

ほぼ時間通りに待ちあわせ場所に集合した面々は、我々バンドメンバーに福島からおいでいただいた丸や運送社長のS氏、宇都宮からこれまた遥々いらしたヴォーカル氏の計9名ほど。
駅の横の細い路地を通り抜け吐夢に到着し、明るいうちから早速生ビールで乾杯!
フェスティバルの盛況と再会を祝したのでありました。

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最初に話題になったのは、音楽の話でもコンサートの反省でもなく、宿泊先に用意していただいた岳温泉の温泉旅館とお昼にごちそうしていただいたソースカツ丼。

岳温泉あづま館という旅館は、安達太良山の中腹にある岳温泉の中でも有名な大きな温泉旅館で、露天風呂はもちろんのこと温水プールまである立派な施設。
ここの温泉の湯が実によかった。
程よくまろやかでよ〜く暖まり肌に優しい。久しぶりのいい湯でした。

ここに宿を提供していただいたワタクシらバンド連中は、当日演奏→一次会→二次会→宿での三次会と盛り上がり2時頃まで音楽談義に花を咲かせていったのですありますが、早めに寝てしまったワタクシは翌朝5時に起床。
朝風呂に露天風呂を堪能し、朝食の始まるまでの小一時間ロビーで飲み放題のコーヒーなどいただきながら地元福島民放という新聞を読み、朝食タイムにはひとり早々に朝食をとり、バンド一同が起きてきて朝食に向かう頃には一人水着を片手にプールに向かい600mほど泳いでいい汗を流し、岳温泉での爽やかな朝を迎えたのでありました。
この早起きプールに関しては温泉を堪能してよろしゅうございましたという肯定派と、飲んだ翌日朝っぱらから泳ぐなんてバッカじゃねえのという否定派が混在したものの、やったもん勝ちが信条のワタクシにとってはノープロブレム。

続いて話題になったのは、演奏当日のお昼にごちそうになったソースカツ丼。
これは、だけ温泉の温泉街入り口にある成駒というカツ丼屋さんのヒレカツ・ソース・カツ丼をみんなでいただいたのですが、ヒレカツの厚さと量が半端でない!

ヒレカツの厚さはおよそ5cm、こんな分厚いヒレカツは初めて見ました。
そしてこのカツが美味しい!でもその量が半端でないのでほとんどのものが食べきれず残して、夜中の三次会のつまみになったというシロモノ。

これをよんだみなさん、岳温泉にいったら絶対食べにいってください。食べないといや見るだけでも生きていた価値があるというものです。


というように、昨年同様反省すること無く飲み会は進んでいったのでありましたが、ここから先はコアな音楽談義、下ネタTへの糾弾、ギターAの嫁問題など昨年の話をリピートするかのような話題。


せっかく遠方から来ていただいた客人に話を合わせるでも無く、勝手気ままにいつものグダグダ飲み会が続いていきます。

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それでも来年に向けてバンマスが、今年は一人30分ずつ時間を設けるから反省の弁を述べるようにという提案があったものの誰も従わず、さらにもう来年の構想はすでに出来ていると重大発表しようとするもメンバー一同は軽くいなすなどバンマスの指導力が問われる一場面などありました。

また今年はリューマチで参加できなかったベースのWが途中参加して大いに盛り上がるなどし、午後10時前にお騒がしてご迷惑をおかけしたお店を出ました。
そのまま駅に向かうと思いきや、昔と変わらずもう一軒!と休日で混み合う阿佐ヶ谷の飲屋街をさまよいつつ二件目を発見し、終電ぎりぎりまで飲んでバカ話に花を咲かせて夜は更けていったのでありました。

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ちなみに、ワタクシはその日が休日で電車が休日ダイヤであることをすっかり忘れており、余裕で帰れると思った電車に乗って横浜まで行ったら、その先の電車が終了しておりひどい目にあってしまったのでありました。
何十年経っても終電に乗り遅れる人生を繰り返す自分にただただあきれたのでありました。



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2014年4月23日 (水)

三渓園とジャズ@平田フミト トリオ K's Dining  福富町

今日は午後から三渓園を見物して、夜はラテン・ジャズ・ピアノで有名な平田フミト・トリオを
聴きに行こうといういかにもみなと横浜らしい、しかしこういう取り合わせはあまりいかにもではないというめったにないお出かけとなりました。

もちろん今回もクリシュナ君をご案内してのワン・デイ・トリップです。

お昼ごはんを食べて、コーヒーなんか余裕で飲んじゃってからおうちを出て、三渓園に着いたのは二時過ぎ。

ここはですね、ワタクシ横浜に住み着いて30年にもなるというのに始めていったんですよ。

三渓園に対しては「大金持ちの豪邸の大日本庭園」というイメージしかなく、子供の頃から
我がオヤジの日本庭園好きから小さいながらも自分の家の日本庭園を見て育った、あるい
は手入れの手伝いをさせられて育ったワタクシには、日本庭園は興味外だったんですね。

今回は、ガイドブックに載っていた三渓園の三重塔を見たクリシュナ君の希望で行ってみる事になりました。

園内に入ってみると、想像以上のバカデカ日本庭園にビックリ!
池の広さが半端じゃあない!十分キャスティングの釣りが出来るほどの広さ。

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こんな池を庭に持って、毎朝起き抜けに一キャストして一日の始まりとする、もしくは昼寝から目覚めたらおもむろに窓から釣糸をたれて釣りをする、なんていうのがワタクシの夢でありますのでそういうものを私有していた人物がいたという事実を目の当たりにして羨望とショックのダブルパンチを受けたのでありました。

正直いって池の向こうに見える山の上の三重塔なんてどうでも良くなり、自分だったらこの池にどんな魚を放すだろうなどと釣りのことばかり考えておりました。

一方のクリシュナ君は日本庭園好きで、この大庭園に大満足。
一回りぐるりと回りながら写真を撮りまくることにしました。

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遅ればせながら三渓園について簡単に説明いたしますと、この庭園は明治時代の実業家原三渓という人物によって作られた大庭園で、その中には京都や奈良、鎌倉などから移築された塔やお堂、茶室、仏像などがあちこちに配置されています。

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悪く言えば、生糸産業で人民を搾取してバカ儲けした成金が、京都、奈良、鎌倉の文化財を片っ端から自分の庭に持ってきちゃった超成金趣味の庭園でワシから見たら「ほかに使うことは無かったんかい?!」っていうようなものなのですが、成金趣味の割には庭園のデザイン、建物の配置のセンスが良いところに救われています。

さすがの原家もその後は没落の道をたどったそうで様々なドラマがそこには有ったのだろうななどと想いつつ、おごる平家は久しからず的な哀愁も感じたのでありました。

園内を歩き回ってみると、とにかく一つ一つの建物がみんな重要文化財っていうくらい見事なものでそれなりに感動させられました。
重要文化財の大見本市という感じ。

4時過ぎまでゆっくりと園内を歩き回り、南門から園を出て隣接されている本牧市民公園にある上海友好都市記念に作られた中国建築物を見てからバスに乗り根岸経由で桜木町へ。

薄暮のみなとみらい地区を撮影して回り、後半の部ジャズライブへ向かいました。

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今回のライブのお店はK's Diningというな~んと!韓国料理屋さんでのジャズライブ。
この組み合わせも中々無いのでおもしろいなあと思いながらお店にいくと入り口で
平田フミトさんがおしゃべりしていらっしゃる。

実は彼は大学のジャズ研の後輩に当たり、今は立派なミュージシャンとして活躍しているものの大学時代の上下関係は死ぬまで普遍的なものなので、失礼ながら一リスナーの私の
ほうがデカイ態度で挨拶してお店に入っていったのでありました。

店内は満員で30人が限界というくらいのカウンターとテーブルのお店。

立派なグランドピアノが置かれており、店主の音楽への気合の入りようが伺えます。

クリシュナ君がベジタリアンだということを話したら、気を利かせてくれて肉抜きチヂミ、
卵抜きビビンバなど作ってくれたので大変助かりました。

ライブが始まるまでビールで乾杯し、三渓園での疲れを癒します。

午後7時半ころトリオの登場。
メンバーは平田フミト(P)中村健吾(B)高橋徹(Ds)

スタートはなんだったっけ?何かスタンダードナンバーだったような・・・(失礼)
平田フミトさんのピアノはラテンジャズで有名ですが、スタンダードの演奏もいいんですよ。

今回はリズム隊の二人との呼吸もぴったり!

比較的手数の多い平田君のピアノの音をかいくぐるように鋭くリズムを刻むベース。
タイトで無駄の無い音数でサポートするドラムスとバランスが非常に良い。

スタンダードに続きラテンの名曲「サンバなんとか・・・曲名忘れた」(失礼)や珍しいボサ・ノバでの「酒バラ」、ワタクシの大好きな「ドルフィン・ダンス」、ハイテンポでの「アンソロポロジ
ー」など曲を追うごとに演奏は熱くなり熱気ムンムン!バリエーション豊かに聞かせてくれました。

どの演奏も質は高く、大満足です。一部が終わったらクリシュナ君が写真を撮りたいとい
うので平田さんにお願いしてメンバーから許諾を受け第二部の始まり。

二部は、さらに熱い演奏が繰り広げられました。

中でも印象に残るのは平田さんのオリジナル「月となんとか・・・」(忘れたごめん!)と超ハイ・テンポでの「ナイト・イン・チュニジア」

「ナイト・イン・チュニジア」ではベースのカデンツァがすばらしかった。
ピアノから振られると迷うことなく素早く弓を取り出し、ハイ・テンポのカデンツァをアルコで縦横無尽に弾きまくる。

あるときは強くある時はやさしく、そして早く、そして絶妙の間を取り。思わず目頭がジ~ンと熱くなって今いました。ベースのソロで泣いたのって始めてかも。
最後はアンコールで「グレイター・ラブ」を楽しく締めくくりのりのりライブは終了。

いやあ、良かったです。
ついでにメンバー三人並んでいただきクリシュナ君がパチリと一枚。
そのままCDのジャケットになっちゃうような写真を撮って、メンバーと握手をしました。

クリシュナ君も感動したらしく「一生忘れない」って握手しながらメンバーに語りかけていました。
ワタクシもメンバー全員にご挨拶と握手を交わし、今日のこの日の出会いに感謝したのでありました。


ジャズ・ファンのみなさん!平田フミトさん、いやワタクシから見ると平田君なんですが、
にご注目を!ライブスケジュールは彼のブログで見ることが出来ますよ。

今すぐ「平田フミト」 で検索!You-Tubeでも沢山出てきます。

ちなみに4月29日には山手の WARANE(わらね)というお店で珍しい彼のソロライブがあります。
チャージは2000円だったかな?リーズナブルなので一見の価値あり。
この日弾くピアノもドイツ製のベヒシュタインというすばらしいピアノだそうでそちらにも注目です。
カトマンズのカメラマンはまさか日本に来てジャズ・ミュージシャンと出会うなんて夢にも見ていなかったろうなぁ、逆もまたしかり。私にとってもすてきな出会い。

出会いは偶然で突然でそしてそれは永遠のつながりに変わっていきます。
明日もまた、すてき出会いがあるといいな。

などと、感傷にふけりながら、土曜の夜11時の福富町の怪しく輝くネオンの下を家路に着いたのでありました。



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2014年4月22日 (火)

ぶらりワン・デイ・トリップ@鎌倉・七里ガ浜

お天気がいいのでちょっと鎌倉へ、なあんていうことが出来るのが数少ない横浜に住んで
よかった!と思える時ですね。
我が家から鎌倉までは電車とバスを使うと一時間弱でいけるんです。

そんなわけで、今回はネパール人カメラマン、クリシュナ君を案内して鎌倉への一日旅行です。

午前9時過ぎに家を出て10時頃到着。
まずは小町通をぶらぶらしてみやげ物屋さんなんかを覗き込んでいたら、いきなり目に入ったのが鎌倉彫のお箸半額セール。

今、家で使っているお箸は上海万博の時に上海で買ってきたシロモノなのですが、いい加減くたびれてしまっていたのでチャンスと思い夫婦箸を購入。クリシュナ君にもマイ・チョップスティック用に購入してあげました。

着く早々いきなりお土産を買って、いざ鶴岡八幡宮へ!

鎌倉に来たらここは押さえておかないとちう場所ですが、当日は階段を上がった所にある社で丁度結婚式が行われており、日本の古式ゆかしき結婚風景を見ることができていきなりラッキー!

神主さんを先頭に巫女さん新郎新婦、親御さん親族の方々と思われる方々の隊列に、古来よりの古楽器を使った三人編成の楽隊もついて、雰囲気を盛り上げてくれます。
日本人の私でも、こんなに格式の高い結婚式を見るのは初めてだったので、カトマンズ育ちのクリシュナ君の目にはどのように映ったのやら。

Photo


クリシュナ君、大変喜んで写真を取りまくっていました。

儀式がを一通り見終わり、鶴岡八幡宮を後に若宮大路をくだり駅に戻ります。
途中、お腹がすいたのでベジタリアンのクリシュナ君に対応してくれそうなお蕎麦屋さんのメニュをみて入店。たけのこご飯とお蕎麦のセットをいただきました。

Photo_2



食後は江ノ電に乗って大仏に向かいます。

長谷の駅を降り、週末の観光客でにぎわう通りを一路北上し大仏様へ。
木の枝の間から遠く大仏様の顔が見えてくるとクリシュナ君「ビューティフル」の連発。

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チケットを購入し中に入るとさらに「ビューティフル」の連発。
遠くから、近くから右から左から、あらゆる角度から大仏様を取りまくっていました。
まあ、仕事がカメラマンなのですから撮りまくるのは当たり前のことなんですが。

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彼の「ビューティフル」の声に、今まで大仏さんを見て美しいって感じたことはあまり無いなあ、なんて思いながら大仏さんの顔をじ~っと見ているとなんだかやさしくて穏やかな目元口元に心がなんとなく癒されゆったりとした気持ちに変わっていく自分に気づいたのでありました。
これまでは神聖、威厳というような言葉しか思わなかったので何かとても新鮮な思いで
大仏さんを見ることができて大満足。

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ほんのちょっとした視点を変えるだけで同じものもまったく異なったものに見えてくるもの
なのだなあ、とあらためて感じることができてクリシュナ君にちょっと感謝。

20円払って大仏さんの中まで入ってさらに色々と思いをはせつつ、次なるお寺長谷寺に
向かいました。

長谷寺では立派な観音様を初めとした多くの仏像を拝観。
撮影禁止のところが多いので写真は撮れませんでしたが、こちらもまた「ビューティフル」
でしたよ。

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長谷寺はアジサイも有名なのでその時期に見せてあげたかったなあ、なんて思いながら
「この花は色が変わっていくんだよ」って、展示されていた写真を見て説明してあげると
大変強い興味を示しておりました。

当日は一部のツツジと牡丹が見ごろで花の写真も撮りまくっていましたね。

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長谷寺からは鎌倉の海岸線も見えてこちらも山国ネパールのクリシュナ君には良かった
みたい。

海無し県埼玉育ちのワタクシには彼の気持ちが少し分かるような気がしました。


天気は今一で、雨が降り出しそうになってきたもののせっかくだからと浜辺に行ってみることにし、江ノ電にのって七里ガ浜へ。

浜辺に下りて波打ち際を江ノ島見ながら鎌倉高校前まで歩きました。

Photo_4


浜辺に落ちていた貝殻を拾ってあげたらクリシュナ君喜んでいました。

いい思い出になってくれたらいいな、なんて思いながら三度江ノ電に乗り夕暮れの湘南を
あとに帰路についたのでありました。




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2014年4月21日 (月)

富士五湖撮影の旅 後篇@富士五湖

午前4時、まだ暗い中で目を覚まし旅館の窓から外を見たら真ん丸い月が少しボンヤリと
見えました。

富士山はまだその姿を現していませんでいたが、月の様子から察すると空気は多少ガスっている様子。

まもなくクリシュナ君も目を覚まし、午前4時半宿をそっと出て山中湖畔に向かいます。

宿から湖畔まではほんの数分、駐車場にはすでに数台の車が止まっており人影も見えました。

湖畔の撮影ポイントに出てみると、もうすでに三脚を立てた方々が数人、暗い中ボンヤリと見える富士山と、そこに向かって落ちていく満月の方向にレンズを向けております。

空気は冷たく、手袋のない手は時々こすりたくなるくらい。

我々も早速カメラポジションを決めるため湖畔を歩いて小移動。
ボート桟橋が陸に揚げられていて邪魔にならないいい場所があったのでそこに陣取りました。

しばらくすると、ざわざわと声が聞こえなにやら集団がいらした様子。
振り向けば大きな一眼レフカメラを持った集団がわれわれのほうに向かってくるじゃあありませんか?!その数およそ20名。
まだ朝の5時前だっちぅのに。

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一同、うっすらと姿を現した富士山とそこに寄り添うようにある満月を見て感動の声を上げながらも、ここが良いだのもう少し右だのとカメポジを探しています。
ここ数年の中高年のカメラブームは登山ブームと重なるところもあり熱気を帯びている様子。

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                      満月と富士山

やがて月は富士山右の稜線に落ち、しばらくするとやわらかい朝日が富士山に当たり始め
これが山中湖の湖面に映りみごとな逆さ富士となりました。

あちこちからはシャッターを切る音が聞こえ朝の静寂の中に響きます。

しばらくすると、隣で三脚を立てていたおばちゃんのところに年配のおぢさんが来て、構図
がどうだの、絞りがどうだのという声が聞こえるのでそちらを伺うと、なにやら写真の先生ら
しいお方が生徒さんを指導してらっしゃるようです。

つまり写真教室の先生が、生徒さんを連れて撮影ツアーに来ていたわけでどおりでカメラ
マンが沢山入るわけだ。
食い入るようにファインダーを覗くカメラマンを横目にワタクシの方は例によって余裕でお
茶をわかし、旅館で出されたバームクーヘンなど一緒に食べていたら、朝食前の一同の
熱い視線を感じてしまったのであります。


そんなことをしながら、時々パチリとシャッターを切り、撮った写真がごらんの逆さ富士。

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39800の安物カメラなのでたいした画は取れませんが・・・



日が上り光の変化がなくなった頃合いを見てパノラマ台へすっ飛んで一枚とって宿に戻り
急いで朝食を食べて一路河口湖へ。
昨日ロケハンした桜のポイントへ向かいました。
30分ほどで着いてみるとそこにはなんとカメラマンのカタマリが出来ているじゃぁありません
か?!

そこは桜の枝の間から富士山が見えるポイントなので、自ずとカメラポジションも限られ
各地から訪れたカメラマンでぎっしり!

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                   河口湖は今日もガスだった


ところが富士山の方は霞がかかってしまって昨日よりひどい。

仕方ないのでシャッターを一応切ったけれど、たいした写真にはならずがっかり。


早々に切り上げさて次はどうしよう?と考えた時、天気が悪くても忍野八海ならそこそこ
楽しめるんじゃあなかろうかと行ってみると大正解!ピンポン!

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古民家を利用した建物や透明な湧水池にクリシュナ君も大満足。

ここでは何故かアジア系外国人観光客が大量におり、北京語、広東語、ベトナム語、韓国
語、インドネシアにタイとなんだかアジアン・フェスティバルみたいな様相を呈しておりまし
た。

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             多国籍観光客に見つめられる大きなマスちゃんたち


その後、西湖、精進湖、本栖湖と西に回り込むもガスで富士山はろくに見えないので、
富士山は諦めて白糸の滝を見に行くことに。


ここに行くのは私も二度目でなんとなくの印象しかなかったのですが、行ってみたら中々
立派な滝が広範囲から流れ出しており、水量も降雪が多かったせいかたっぷりとあり
見ごたえがありました。
ただ横に長い滝なので中々全部を押し込んでスケール感を出すのは難しいんですよね。
三脚を構えるご婦人の後ろで腕を組みながらクリシュナ君の撮影するのを見ていたら、
振り返った三脚のご婦人に「先生ですか?」と声を掛けられあわてちゃいました。

まあ、最近髪が伸びて、ただでさえ怪しい風体のワタクシが撮影のグッド・ポジションに
カメラも持たずに仁王立ちしていたら偉そうに見えるのかもしれませんねえ。

苦笑しながら何枚かとって一休み。
02_3                   確かに怪しい、自分で見ても(苦笑)


その後、夕景狙いでダメ元を承知で本栖湖に戻り一時間待った挙句、霧とガスで富士山が
まったく見えなくなってしまったので早めに切り上げて帰路に着いたのでありました。

あいにくのお天気にクリシュナ君も残念がっておりましたが、朝一の富士山と忍野八海、
白糸の滝がまあまあだったのでよかったみたい。

早起きは三文の徳といいますが、富士山の撮影に関して言えば早起きして日の出前から9時頃まで が勝負でしょうね、この時期は。

これからは新緑と富士山のコラボがいい季節になって行きますので、カメラファンの皆さん
に多少は参考になっていただければ幸いでございます。


あ、それから釣りファンの皆さん!
4月16日時点で河口湖のスポーニングは始まっておらず、魚の影も見えませんでした。
例年だとGWあたりがスポーニングの真っ盛りになるので、早めのデカイの狙いは今週末辺りがいいかも。補償はしませんが。

西湖では丘釣りで小さいヒメマスを30匹くらい釣っているカップルに会いました。
エサはイクラ。ただしヒメマスは他の魚と入漁量が異なるらしいのでご注意を!

精進湖には数名のヘラ師、本栖湖には釣り師の姿無しというのが、今回の富士五湖、
春の最新釣り情報でございます。

西湖、精進湖、山中湖は河口湖より一週間くらい桜が遅いですね。
本栖湖はさらにという感じです。今週あたりいけるんじゃないでしょうか?

お魚ちゃんも同様に遅れて動くのではないかと思われ・・・
ブラック・バス・ファンの方の参考になれば幸いです。
てな感じで、「明日は天気が良かったら鎌倉に行こう」などと話しながら、薄暮の東名高速
をぶっ飛ばして帰った行ったのでありました。




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